あったので購入。
矢口高雄は釣りキチ三平が代表作ですが、釣りだけではなく動物を扱った作品も趣のある短編が多くお勧めです。
さて、この「ニッポン博物誌」part2では明治大正あたり、奥羽で猿を狩っていた「サルマタギ」を扱った「サルカ三十文」という作品があります。


※今回のblogはムラキが個人的にやっている「革を深く知る」の一環です。
間違いなり意見がある場合は指摘していただけると助かります。
以前から「猿、犬、猫などの革利用はあったのか?世界ではどうだったのか」というのは個人的に疑問を感じぼちぼちと調べていました。(ここらの話もいつか書こうとは思うのですがいかんせん内容がなぁ。)
ちょうどこの「サルカ三十文」の中でこの時代における猿の利用が載っていたので軽く紹介してみようと思います。

・当時の猿の毛皮の価値はくまの毛皮の3倍
・胆嚢や骨も薬として使われた
・牛馬の病気よけの呪いとして猿の頭蓋骨や骨を吊るす習慣があった
・山麓の村々にはサルマタギ専用の宿屋もあった
この序盤からサルマタギと大ボス猿「オシラミガミサマ」との化かし合いが始まるのですが
それはまぁ本編を読んでもらうとして。
牛馬の病気よけの呪いとして猿の頭蓋骨や骨を吊るす習慣は厩猿(ウマヤザル)という習慣であり、日本モンキーセンター学芸員さんの文章がネットで読めるのですが、、
大正時代に全国にアンケート調査が行われ、岩手県の和賀郡が報告しています。4〜5年前までは中央山脈、いわゆる奥羽山脈に50から60頭群生を認めるが近年少なくなってきているというようなことが書いてあります。
なぜ、少なくなったかというと、中村先生の報告にありますように厩猿のためというのもあったでしょう。食べたということもあります。もうひとつ、サル害のために退治したということもあります。サル突き用の長い槍でサルを退治すると同時に利用したのでしょう。
東北地方はサルを食べていたという記録がありますが、東北地方に限らず、島根県でも大正時代のサル退治の写真があります。
サルは毛皮を使いますし、肉も食べますし、頭骨はもちろん厩猿にも使ったことでしょう。頭骨は焼いて薬にもしていました。このようなことから、サルは明治から大正にかけて広く分布していましたが、人間がさまざまな理由(食料として、薬として、厩猿として、毛皮として、猿害駆除として)で捕獲したことにより少なくなったのではないかと推測することができます。
この文章を読んでいくと牛馬と猿の関わりなどを知ることができ面白いですな。


・猿の激減は人間の乱獲によるものであり、原因の一旦は銃器の発達
・この地の寺小屋にはそろばん稽古に猿の値段を計算する教育法があった
上記写真にもあるように
・サルカ(皮)三十文なり
ミ(肉)六十文なり
バッキャ(頭)十文なり
ザル(アバラ骨)八文なり
とあります。
上記記述はおそらく江戸時代末期。
このころは1両=4分=16朱=4貫=4000文
じゃぁ1両はいくらだったの?というのは時代とその次代の需要と供給によって大きく変わるため現在の貨幣価値に当てはまるのは非常に難しいとされています。
で、そんな中でも貨幣博物館のまとめている「お金の歴史に関するQ&A」を見ると
1両が江戸初期で約10万円前後、中〜後期で4〜6万円、幕末で約4千円〜1万円ほどになります。
時代的に江戸時代中期〜後期1両6万円で考えると、、
・サルカ(皮)三十文なり>450円
ミ(肉)六十文なり>900円
バッキャ(頭)十文なり>150円
ザル(アバラ骨)八文なり>120円
猿1匹全部、隅から隅まで利用させてもらったとして2000円〜3000円ほどかな?
なにげに現代のハンターが鳥獣被害に対して出される駆除費用のほうが高いかもしれないですな。
で。
実際に猿の毛皮をどのように利用されていたのでしょう?
歌舞伎の題目「靭猿」というものがあります。
うつぼざる【靭猿】の意味 - 国語辞書 - goo辞書 :
靭(うつぼ)とは矢を入れる器です。
靭 とは - コトバンク :
空穂,靫とも記す。矢を入れ,腰につけて持ち歩く筒形の容器。弓矢合戦中心の鎌倉・室町期の武士がよく用いた。長い竹籠で作り,外側を動物の毛皮や鳥の羽などでおおった。
装飾や防寒具としての役割がほとんどだったようですなぁ。
鹿革などは日本では鎧からタバコ入れ、スリッパなど様々な用途に使われたことと考えるとえらい対極的だな、と思います。
革利用は基本的に「食ったあとの残りをさぁ何か使おうよ」が基本といや基本です。
鹿は日本人は昔から食っていましたからなぁ。
ここらは話し始めると天武天皇の肉食禁止令の話やらとさらに話が飛んでいくのでまたいつか。。
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